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実盛物語

武士の意地か、老木の花か。篠原に散った斉藤別当実盛。

『老木に花の咲かんが如し』

『老木に花の咲かんが如し』、世阿弥があらわした能の奥義であり、まさに実盛の姿でもある。

平維盛が木曽義仲に破れた篠原の合戦で、老武者・実盛は退却もせず、ただ一騎奮戦するも、木曽方の手塚太郎光盛と組み、討死【うちじに】。

大将かと見れば続く軍勢もなく、侍かと思えば錦の直垂【ひたたれ】(錦は金糸銀糸で模様を織り出した絹織物。錦の直垂は大将軍の装い)を着け、決して名を明かさない。不思議な武者と思った光盛は義仲に首を差し出す。

実盛を知る樋口次郎は、ただ一目みて「あなむざんや」。白髪まじりの髪を染め、前主君・源義朝に拝領した兜を付け、現主君・平宗盛に許された出で立ちで故郷に錦を飾った実盛。かつて命を助けた義仲の情にすがらぬ、けなげな最期に芭蕉も嘆く。

斎藤実盛【さいとうさねもり】(?~1183)

代々越前に住んだが、武蔵国長井(現・埼玉県大里郡妻沼町)に移り、源為義、義朝に、後に平維盛に仕えた。維盛に従って義仲を討つ折、鬢髪を黒く染めて奮戦し手塚光盛に討たれたという。別当とは役職の名称。

むざんやな 甲の下の きりぎりす

芭蕉句碑小松市多太神社の芭蕉句碑

「奥の細道」で芭蕉も詠嘆。白髪を染めて実盛、討死する。

実盛の首を確かめた樋口次郎は、ただ一目みて「あなむざんや、斎藤別当で候ひけり」と涙はらはら。実盛の討死【うちじに】から500年後、芭蕉が訪れ「むざんやな」の句を詠む。

多太神社に残る実盛の兜多太神社に残る実盛の兜(国重文)。高さ15.2cm、鉢廻り71.2cm、総体廻り139.4cm、重さ4.4kg。木曽義仲が願状を添えて実盛の遺品を奉納したと伝えられています。現在は兜、袖、臑当(すねあて)を見ることができます。なかでも兜は精緻で気品があり、芭蕉も[奥の細道]で詳しく紹介しています。

小松市多太【ただ】神社が収蔵する木曽義仲奉納の実盛の兜は820年の時を超え、色あざやかに堂々と、その姿を保っている。宝物館の扉を開けば、暗闇に眠る兜が光を受け、往時の輝きを見せる。

『目庇【まびさし】(兜の鉢のひさし)より吹返【ふきがえ】し(兜の耳の部分)まで、菊のから草のほりもの金をちりばめ、竜頭【たつがしら】(竜の全容を兜の鉢の前方から頂辺にとりつけて飾りにするもの)に鍬形【くはがた】(兜の前立物)打たり』と芭蕉が賛美した。中央には八幡大菩薩の神号が浮かびあがる。

兜はかつて仕えた源義朝より拝領の品。平宗盛【むねもり】に許された錦の直垂【ひたたれ】姿(故郷へは錦を着て帰れという史記・項羽本記によるもの)も華やかに、死出の旅へと赴いた。

吉本達人【よしもとたつと】小松市・多太神社神社総代、実盛之兜保存会会長

一枚の絵から広がる歴史の夢、義経の旅の姿。

吉本達人【よしもとたつと】小松市・多太神社神社総代、実盛之兜保存会会長実盛の武勇、芭蕉の名句が時代を超えて呼応する。

兜の重さは約4.4キロ。かなり重いですね。実戦用というより飾り兜といって、大将のしるしに陣屋に飾るものだったようです。実盛が亡くなって820年、その500年後に芭蕉が訪れています。時代を超え、二人の魂は呼応し、素晴しい句となって結実しました。

毎年7月の第4土曜日曜には「かぶとまつり」を開催し、実盛の詩舞、吟詠、謡を能舞台で奉納。ふるさと縁りの文化財をもとに、源平の歴史を未来にもつないでいきたいと思います。

※兜を収蔵する宝物館見学ご希望 の方は、あらかじめ予約が必要です。連絡先/0761(21)1707(兜保存会)

実盛の首洗池

実盛の首洗池。池のほとりには芭蕉の句碑、また洗った実盛の首を前に嘆き悲しむ木曽義仲等の像があります。池の周辺は手塚山公園と名付けられ、歴史に思いを馳せる静かなひとときを楽しむことができます。

実盛は元はといえば源氏方。保元、平治の乱では義経の父・義朝の家臣として活躍、義朝亡き後は一転して平家に仕える。時代を読み、強者の庇護のもとへ。これは当時はよくあること。当主はこうして一族や領地を守ってきた。

京に上る木曽義仲に攻められ、北陸の平家ももはやこれまで。平維盛【これもり】等みな後退するなかにあって、赤地の錦の直垂に、萌黄縅【もえぎおどし】(若葉のような薄緑色の紐糸で札(さね)をとじたもの)の鎧【よろい】着て、鍬形打ったる甲の緒をしめた一騎の武者が篠原にいた。

その雄姿に感服した手塚太郎光盛が「なのらせ給へ」と言葉をかけるが、決して名乗らない。身分の低い侍かと見れば高貴な衣装、大将軍かと思えば続く者もいない。

討ち取った光盛はその首を義仲に見せる。義仲は、あっぱれ、これは実盛と知る。けれども義仲が幼い時に会った実盛は、すでに白髪まじり。鬢【びん】や髭【ひげ】が黒いのはおかしなこと、実盛と親しかった樋口次郎を呼び、確かめるが、やはり実盛の首に間違いない。かつて実盛は日頃から樋口次郎に語っていた。年老いて戦場に赴くときは、若者にあなどられないよう黒く染めようと。

首を洗ってみれば、確かに白髪の実盛。越前国(福井県)に生まれた実盛にとって、北陸はふるさと。故郷に錦を飾るの言葉どおり、平宗盛に許しを得た覚悟の出で立ちで、七三歳の老武者は最後の戦いにその名を残した。

実盛の意気地を語る塚の黒松。老松堂々、武士の誇り。

塚の黒松実盛の墓と伝えられる実盛塚。時宗の14世遊行上人が篠原古戦場近くの道場で布教している時、実盛の亡霊に会い卒都婆を書いて霊を慰めたという。これが世阿弥の謡曲「実盛」のモチーフになりました。その後、代々の遊行上人が加賀を訪れた時は決まって実盛塚を訪ね供養したといわれています。

実盛があえて名乗らなかったのには、もうひとつの理由があった。

義仲の父、義賢【よしかた】が殺された時、預かった二歳の義仲を殺すに忍びなく、木曽の中原兼遠にはるばる送り届けた。義仲が今生きてあるのは、みな実盛の温情あればこそ。養父ともいうべき実盛の白髪姿に、義仲はさめざめと泣いた。実盛と名乗れば、たとえ平家軍の武将でも義仲は命を助けただろう。

けれども実盛は名乗らなかった。名乗らぬことで、名を残した。武士の誇りを全うした。白髪の老人だとて同情は無用、武士として対等に戦いたい。かつて助けた義仲の情にすがることなく、武士の名誉とともに死出の旅を選んだ。

実盛の最後にふさわしい加賀市篠原古戦場跡の実盛塚。生け垣を歩めば、突然視界は開け、堂々とした黒松が、すっくと立つ。まるで能舞台の鏡板に描かれた老松である。謡曲「実盛」(世阿弥作の修羅物。実盛の霊が遊行上人の説法を聴聞したという伝説と、篠原の戦いの物語を脚色)の舞台にふさわしい幽玄の世界。実盛が戦い、そして永遠に眠る松林を渡る風は無常を語り、彼方に聞こえる海鳴は世のはかなさを伝える。

実盛塚から汐見橋を手前に右折、柴山潟から日本海へと注ぐ新堀川に沿って一キロあまり。首洗池がある。うっそうと草々繁る水面は、まるで時を忘れたかのように止まったまま。池に注ぐかすかな水音が、静かな幻想の世界から現実へと引き戻す。

芭蕉が嘆き、世阿弥は謡曲「実盛」で哀れんだ。けれども実盛には光がある。みずからの意志を貫き、名誉を全うした潔さ。人生の最期に咲かせた一輪の花、実盛の老木の花こそ誠の花である。

松下奏【まつしたすすむ】加賀市・片山津温泉うきうきガイド

静かな篠原古戦場跡に立ち、実盛の武勇に思いを馳せる。

松下奏【まつしたすすむ】加賀市・片山津温泉うきうきガイド実盛といえば稲を食い荒らす害虫や虫送りにその名が残っていますが、実盛の最後は潔く、素晴しい人物だったと私は思っています。

その実盛塚の前で、これで17年ほどになりますが、毎年8月20日からの[片山津温泉湯のまつり]の時に供養祭をし、地元の女子中学生が白装束で「篠原慕情」を踊ります。

加賀の誇り、実盛の姿を地元で語り伝えるとともに、全国の方々にも広めていきたいと思います。

※加賀市・片山津温泉うきうきガイドは、加賀市の観光ボランティアガイドのひとつ。片山津温泉街および周辺を案内する。連絡先 0761-74-1123 (片山津温泉観光協会)

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